2009年

ーー−3/3−ーー 寮母さん

 画像は先日出来上がったテーブル。昨年12月の展示会で、注文を受けたものである。間口1メートル、奥行き60センチの小ぶりなものだが、一人住まいの食卓として、このサイズを希望された。注文主は、私が会社勤めをしていた頃の、独身寮の寮母さんである。

 私は、入社してから4年間ほど、独身寮にやっかいになった。その寮は、全部個室で、およそ120人の寮生が入っていた。その中で、私の部屋は二番目に汚いと言われていた。ちなみに一番汚かったのはY先輩で、その汚さの故に、寮内引っ越しを命ぜられたという御仁であった。寮母さんにとっては、私も悪ガキだったに違いない。

 この独身寮に住んでいた時期は、私の人生の中で、とても楽しかったものとして思い出される。毎日、会社が終わって寮に帰ると、自由奔放な時間であった。同僚の部屋へ押し掛けて、夜が更けるまで議論をしたり、高歌放吟を行ったりした。そんな思い出は、数限りない。

 また、年に一度の寮祭では、いろいろな出し物を考えて、楽しんだ。「サイト便り」というおふざけの映画を、寮生をキャストにして撮影し、寮祭で公開したこともあった。その映画の内容の一部が事前に漏れ、会社側から「不適切なものを上映しないように」という横やりが入った。それでも、「表現の自由だ」などといきまいて、決行した。結果的には、寮祭を訪れた会社役員から「なかなか良かった」と言われて、事なきを得た。

 こんな悪戯もした。新入社員が入ってくる時期を見計らって、風呂場にアヒルのおもちゃとか水鉄砲を置くのである。エリート企業に就職をして、意気揚揚とした新入社員が、寮の風呂場で、幼稚なおもちゃで遊ぶ先輩社員を見てどう感じただろうか。

 そういう勝手気ままな寮生の暮らしを、時に厳しく、時に大らかに導いてくれたのが、くだんの寮母さんであった。

 独身寮といえば、近隣住民とのいさかいはつきものである。寮母さんは、事あるたびに近所を回って挨拶をしていた。寮祭の時は、とくに近所から苦情が寄せられることが多かったので、ひと月前から近所回りをしていたそうである。

 そんな付き合いを積み上げていくうちに、近隣住民はいつしかこの独身寮を、身内みたいに感じるようになったらしい。近所で起きた火事を、寮生の活躍で消し止めたこともあったとか。会社の都合で寮を閉じる事になったとき、涙ぐんで別れを惜しむご近所さんもいたそうである。

 そういうことの全てを、寮母さんはたった一人で見守ってきたのである。

 その寮母さんと、昨年12月の展示会で、およそ28年ぶりに再会した。昔の同僚が連絡をしてくれたそうで、ひょっこり来てくれた。私は長年に渡る音信不通の非礼を詫びた。

 寮母さんは、もう70過ぎの年齢である。いっとき大病をしたが持ち直し、いまは健康に気遣いつつ、元気に暮している様子だった。

 展示会に来られて、テーブルの注文の話を切り出された。来る前から、何か大竹の作品を買おうと心に決めていたのだと思われた。元寮生のために何かしてやりたい。口には出されなかったが、そのお気持は伝わってきた。私はあらためて寮母さんの人柄の温かさに打たれた。


 
ーー−3/10−ーー サクラ咲く

 9日、次女の大学受験の発表があった。ネットで開示するのだが、定刻にアクセスしても、混んでいて繋がらない。昨年は40分かかった。待ち切れないので工房へ戻り、仕事をした。暫くして、娘が家から飛び出して走って来るのが見えた。合格だった。

 一浪なので、冒険はできない。安全確実なところをねらった。昨年の夏以降、模擬試験でA判定となっていて、しかもセンター試験の結果でも合格可能性90パーセント以上となっているところを志望した。

 入試を終えて解答速報を見たところ、数学や物理にいくつかのミスを発見したそうである。それが気になって仕方がないようだった。私は、自分の経験からも、上の二人の子のときの経験からも、よほどのことが無い限り大丈夫だと言った。しかし内心は穏やかでなかった。

 我が家の経済状態では、私立大学には行かせられない。だから、前期と後期の二回のチャンスしか無い。後期はさらに安全を見て志望校を決めているが、何事も完全ということは無い。「落ちたらどうしよう」、その不安にさいなまれた12日間であった。

 先年亡くなった私の父にとって、次女はとてもお気に入りだった。上の子供たちと違って、生まれたときから一緒に生活していたからであろう。彼女に対して は、とても甘いお爺さんだった。そんな父だったから、娘の願いを神様に取り次いでくれるだろうと思い、私は受験の度に父の遺影に向かって手を合わせた。

 結果が出た後、私は父に「合格したよ」と報告をした。写真の中で父は、いつもと同じように笑っていたが、「ほうれ、ちゃんと上手く行っただろう」と悦にいっているようにも見えた。



ーーー3/17ーーー 著書の刊行

 
私の本が出版された。先週の木曜日、出版社から完成本が、とりあえず20冊届いた。著者献本10冊と、営業用の献本10冊である。「著者献本」、なんと響きの良い言葉だろう。

 著書の詳細は→こちら

 文筆家でも学者でもない一般人が、自費出版ではなく、出版社の企画で本を出すというのは、極めて稀なことらしい。その機会を与えてくれたプレアデス出版のA氏には、何度お礼を言っても足りないくらいである。

 最初にA氏から話が来たのは2006年の12月であった。信州に関する検索をしていて、大竹工房のホームページにたどりつき、「木と木工のお話」などの記事を読んで、企画を思い付いたそうである。そういう事を夢見て、ホームページに記事を書き続けていたという経緯は有ったが、現実にシンデレラ・ストーリーが我が身に起こったときは、信じられない気持だった。

 A氏にはいろいろ指導され、教えられた。私は初めて、自分の楽しみで書く文章と、商品としての本に求められる文章との違いを知らされた。考えてみれば、木工家具作りだって、プロとアマではスタンスの違いがある。しかし、慣れきってしまうと、意外とそういう違いに気が付かなくなる。自分の作品と世間との関わりを再認識するという意味でも、今回の出版は貴重な経験となった。

 本が届いた時は、家族揃って有頂天になった。しかし、一夜明けると、私自身は妙に醒めていた。大きな夢も、かなえられてしまうとあっけないものである。当初「自分の本が世に出るなら、それだけで満足」、と思っていたのが、次第に「私の本がどれだけ売れるだろうか」という事に関心が移っていった。人の欲望は増殖する。今は、一冊でも多く売れ、一人でも多くの人に読んでもらいたいと願っている。

 本を売るにはどうしたら良いか。私には専門的な事は分からない。とにかく、知り合いや友人に連絡をして、出版のことを伝えた。多くの人が協力を申し出てくれ、また販売促進のアイデアを出してくれた。有り難いことである。地元マスコミにもお願いをした。地元の大きな書店にも現物を持って挨拶に行った。

 プレアデス出版は、小さいながら、大手取次店との取引がある出版社である。つまり、全国どこにある書店でも、客からの注文があれば本が入ることになる。もちろんネット通販でも買える。このホームページを見ている方が、北海道で、九州で、私の本を手に入れて、読んで下さるシーンを想像すると、胸がときめく。



ーー−3/24−ーー 小梅の梅干し

 暦の上では春になっても、信州ではなかなか花が見られない。梅の花も、遅い。東京で生まれ育った私には、梅は春の花というよりは、冬の最中の花であった。1月の末にはつぼみが膨らみ、2月になれば花が開いて芳しい匂いを漂わせた。桜が咲くより2ケ月ほど早く咲いた。梅は、新年一番乗りの花だったのである。

 当地では、梅の花が盛りを迎えるのは、4月に入ってからである。4月の中旬になれば桜が咲き始めるので、梅と桜が時を同じくして咲くことになる。梅も桜も葉が出る前に花が咲くから、冬枯れの景色の中に、突然花が湧き出たようになる。長い冬がようやく終わったと実感される、喜びの季節の到来である。

 我が家の庭に植えてある梅は二本あり、種類が異なる。南側の庭の樹は実が大きい普通の梅であり、北側の裏庭にあるのは実が小さい小梅である。種類は違うが、どちらも開花の時期は同じようなものである。今年も三日ほど前から、つぼみが開き始めた。

 実が大きい方の梅は、実を収穫して梅干しや梅酒を作る。母が一緒に暮らしていた頃は、母がもっぱらその作業をしていた。一本の樹から採れる実の全てを、母が使い果たしてしまうので、私の家内は南高梅を購入して、自家用の梅干しを作っていた。

 裏庭の小梅は、これまで幼木だったのであまり実が取れなかったが、二年ほど前からまとまった量が採れるようになった。そこで家内は昨年、小梅で梅干しを作る事を思い付いた。

 一般的には、小梅は熟す前に収穫して塩水に漬け、そのまま干さずに食べる。いわゆるカリカリ梅である。家内のアイデアは、小梅を普通の梅干しのように加工してみようというものだった。

 出来上がった梅干しが、画像のもの。比較のために、普通サイズの物も添えてある。大きさが小さいだけで、味は変わらない。普通の梅干しでは、大きすぎて持て余す場合もある。小梅は、ちょうど良い大きさと言えなくもない。ちょっと口寂しいときに、一粒丸ごと口に入れても、塩味も酸味も過剰ではない。また見た目も可愛らしくて、なかなか良い。

 ところで、何故巷では小梅の加工品はカリカリ梅ばかりで、梅干しが見当たらないのだろう。そう家内に問うたら、「小さくて作るのが面倒だからでしょ」という答えが返ってきた。



ーー−3/31−ーー 次女の出立

 
大学に進む次女が、今朝仙台に向けて旅立って行った。家内が、一泊の予定で付いて行った。新生活の身の回りを整える手助けということだが、息子のときは一度も現地に行ったことは無い。女の子だと、つい優しくしてしまうのだろうか。

 朝7時過ぎに、明科駅へ送って行った。行きの車の中で娘は、「受験のときもこんなふうにして明科駅に行ったね。でも、今回はもう帰って来ないんだね」と言った。

 駅で二人を降ろした。いつもと同じような別れの言葉を交わして、私は家路についた。

 帰る途中、有明駅の脇の踏切を越えた。形ばかりの左右確認をしたら、駅舎が見えた。娘の通学の送り迎えで、何百回も通った駅である。しかしここも過去の場所となった。ふと、駅の屋根の下で、私を待つ娘の姿が思い出された。そうしたら、急に寂しさが襲ってきた。






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